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​礎義塾とは

今は集団授業をやっていません。

集団型と個別型と自立支援型の塾の良いとこ取りをした個人塾です。

基本は集団授業を行います。

ただし、私が前で話す時間より子供たちが問題を解く時間のほうが多くなるようにしています。

結局は頭を動かさないと力がつきません。

演習のときには横並びで進むのではなく、できる子は難しい問題までチャレンジしてもらいます。

理解が追いついていない子は個別に指導を行います。

受験のノウハウを教えて、とにかく点数を稼がせる!というものではなく、

自立支援を目的としています(高校生になったときに自分で勉強できるような子を目指しています)

​詳しくは『指導について』をご参照下さい。

礎義塾が、子供たちの成長の手助けを行うにあたって大事にしていることは以下の4つです。

1.生涯役立つ知力

学習塾として当然達成されなくてはならないのが、学力の向上です。

更に言えば、各々の志望校に合格させることが我々の使命と言って差し支えないでしょう。

ただ、私は点数を上げるだけでは、意味がないと考えております。

「せっかく志望校に合格したが、学校の授業についていけない。」

「志望校に合格したはいいが、燃え尽きてしまってやる気が出ない。」

「学力は上がったが、勉強に専念しすぎて中学時代に楽しい思い出がない。」

これでは本末転倒です。しかし、このような声はよく聞きます。

もう一度繰り返しますが、せっかく合格したのに学校の授業についていけない。

それは不幸です。

そこから学べるものもあるでしょう。が、できれば回避したいことです。

ただ勉強ができる、ではなく学力の先にある知力を高め、

高校受験や大学受験だけでなく、将来社会で通用する力をつけることが私の目的です。

解き方を教えるのでなく、「考え方」を教える。

覚えさせるのではなく、「覚え方」を教える。

こういった積み重ねにより、自ら向上する力をつけることを大切にしています。

また、適切な知力は生活を豊かにします。

相手のことを考えられるから人に優しくできます。逆に人に騙されないことにも繋がります。

先を読む力があれば計画的な行動ができ、万が一への備えができます。

考える力さえあれば、お金を稼ぐこともできますし、無駄な出費を抑えることもできます。

何をどう考えればよいのか。

考えることの基礎をつくることが本校の役割の1つだと考えています。

2.努力を楽しむ気持ち

人生において「努力は大切だ」「頑張りなさい」と何度言われるでしょう。

私自身も言われましたし、言ってきました。

努力が大事なことなんて、言われるまでもないことです。

しかし、その “ 努力 ” が大変だから、努力できない人はたくさんいます。

“ 努力 ” ができるようになるには「精神力の強さ」と「楽しむ気持ち」が必要です。

環境としては、「雰囲気」と「成功体験」、「教材の工夫」が整っている必要があります。

本校では、そのいずれにも力を注ぎ、日々研究と改善を行っています。

辛い努力はしたくないならば、できるだけ楽しく努力できる人になりましょう。

努力ができるようになれば、やり方次第で大抵のものは実現可能です。

問題は努力ができるか否か。

努力は基本的にツライものです。

ただツライと感じるのがどこからなのか、どの程度なのかは人によって大きく違います。

これはマラソンのようなものです。

普段運動していない人はすぐにツラくて逃げだしたくなります。

しかし、普段から運動をしている人はちょっとやそっとじゃツラさを感じません。

まずは、努力のツラさを減らすところから始めましょう。

3.誠実さ

学習塾も、当然商売です。しかし、「教育」を扱う特殊な商売です。

教育とは言ってみれば他人の人生を大きく変える行為です。

勉強だけ教えてオシマイというわけにはいきません。

そのような仕事ですから、人と人との繋がりを大事にしています。

子供たちや保護者の皆様との信頼あってこその商売だからこそ、誠実であることを心掛けております。

過剰な広告や、過度な勧誘・引き止め、受験直前の授業料引き上げなど、

商業的には必要かもしれませんが、そういった行為は私の義に反するため一切行いません。

入塾時に紹介する金額以上のものは基本的に頂きません。

逆にそうしないと家庭の金銭的な計画が狂ってしまいます。

また、進路指導の際も進路実績のための指導を行いません。

それぞれの子に最も合った学校で高校生活を充実して欲しいと思っておりますので、

たとえトップ校合格が確実な子であったとしても、その子に合わないと思えば勧めることはしませんし、

逆に合格の可能性が低かったとしても、ランクダウンすることが本人のためにならない場合は

志望校を下げることを勧めません。

ただし、全く強制はしません。あくまでも助言を行います。

中には実績を残すために私立の専願入試を受けさせない塾もありますが、

必要ならばむしろ専願を推奨します。

保護者の皆様に様々なことを馬鹿正直なくらいに正直に言います

聞いて下されば大抵のことは話します(子供たちには必要に応じて嘘もつきます)

結局はそのほうが、みんなのためになるからです。

誠実であること

その姿を見せることも、教育の一環だと思っております。

4.不真面目さ

真面目にしなさいと多くの大人は言います。

真面目になれることは非常に大事なことです。

それと同時に不真面目になれることも非常に大事だと私は考えます。

どんなものも長所と短所があります。

真面目であることの良さもたくさんありますが、

真面目であるというのは、ある意味では思考の放棄です

ただ指示に従う。言われたことをする。一般的な考え方に沿って行動する。

中高生の真面目な子ほど、主体性の乏しい子が多いです。

それでは面白みに欠ける人間になってしまいます。

真面目な子ほど柔軟な発想ができません。

言われたことは守って当たり前だと思っているからです。

言われたことを正しいことだと信じて疑わないのは学問おいて健全ではありません。

既存の概念を疑う姿勢は、案外真面目さが枷になります。

また、勉強したくないなぁと思うことは悪いことではありません。

思うだけなら誰だって思うはずです。

「勉強をしたくないからしない」のではなく、「したくないと思わないようにする」わけでもない。

したくない勉強をできるだけ楽をするためにはどうすればいいのかを考える。

そのこと自体も勉強になります。

こういった考えは、ほんの少しの不真面目さがなければ思いつきません。

社会で生きる上で、不真面目なだけではいけませんが、

不真面目になれるということはそれだけ心に余裕があるということなのです。

心にゆとりのある教育は、感受性豊かな子供を育てます。

改めて言いますが、基本は真面目であり不真面目にもなれることが大切なのです。

塾長の考え

礎義塾は、学習塾です。もちろん、学力を伸ばすことも目的の1つです。

しかし、他の学習塾とは違って学力を伸ばすことだけが目的ではありません。

我々の指導方針を一言で言い表すならば「社会に通用する大人を作ること」です。

以下に私の考えを載せております。

進路の決め方

塾の役割の1つは進路決定にある。

志望校どこにするかを考え、そこに行くために学力を身につけさせる。

志望校の決め方は人それぞれあるだろうが、まぁまぁ適当である。

いろいろと理由をつけるが簡単に言えば何となくなのだ。

みんなが目指しているからとか

友達が行くって言っていたからとか

部活が強いからとか

今の学力で行けそうだから・届きそうだからとか

それでも多くの場合は、とりあえず偏差値の高い学校を目指す。

動機は何であれ、最も重要なことはその後の進路がどうなのか、ということ。

どこの高校を卒業したかなんて、人生でどれほどの価値があるだろうか。

重要なのは高校で何をするか。

何を感じるか。どんな人と出会うか。

それでどれだけ成長するのか。

そういうことを考えて進路を決めて欲しい。

人生は長いが、可能性に溢れた期間は短い。

あのときにああしておけばよかったと思わないで済む選択をして欲しい。

だから私はその子に合った学校だと思えば、

私立を勧めることもするし、普通科以外を勧めることもする。

現在の成績以上の学校を勧める場合もあれば、

偏差値で見ればずっと低いところを勧めることもある。

逆に言えば、偏差値だけを見て受かる受からないだけを考えて

志望校を決めるようなことは極力避けて欲しい。

 

とにかく考えさせる

「答は分数になりますか?」

「この答であっていますか?」

 

簡単に答える教師は多いだろう。教えるほうが楽だからだ。

質問した側も、すぐに教えてくれるほうが嬉しい。良い先生だと思う。

私は答えない。むしろ、そんな質問をすること自体を叱る。

当たり前の話だが、答は重要じゃない。答を求めることができること、が重要であって、

更に言えば、答に辿り着くまでのプロセスが重要なのだ。

ところが、それに気づけない生徒は多い。

“ 答は分数になるか ” それは、自分で考えなくてはならないところである。

計算の結果そうなったのであれば、それを信じればよい。

もし、文章題なんかで答が分数になるのがおかしいのであれば、

やり方が違うか更に考えなくてはならないということだ。

 

「私はこういう風に考えて、ここまでわかりましたが、ここからどう考えればいいのかわかりません。

そんな質問が出たならば、懇切丁寧に教える。そんな質問をする生徒に育てたい。

 

自由と責任

 

自由に勉強しなさい。

そう言われると、困ることだろう。

子供たちはいつも与えられたものを勉強する。そのほうが楽だからだ。

大人だってそう。言われたことをするだけのほうが楽だ。

責任も何もない。

考える必要もない。

だが、考えることが重要である“勉強”においては楽してもらっては困る。

 

「これはノートに写すんですか?」

私はそれすら、指定しない。必要と思うなら写しなさい、とだけ言う。

実際にノートに写すだけで成績が上がるなら全員にそうさせる。

活かせるかどうかは、その子次第だ。

写さなかったことを後悔したときに初めて、ノートを取ることの重要性がわかる。

それまでは写す時間が無駄なだけだ。

自由と放任は違う。だから、チェックしなくてはならないその方法や進め方は人によって異なる。

方法や進め方が間違っていても、しばらくは見守る。自分で気づいて欲しいからだ。

これは気づくことがないな、気づいたとしても時間がかかり過ぎるな、と判断した場合

やり方についてこちらから指導を行う。

もちろん、何でもかんでも自由にしなさい、という話ではない。

個人の「勉強を行うスキル」を上げるための手段の1つとして行っているだけだ。

頭でっかちになるな!

勉強ができる人間に対して、マイナスのイメージを持つ人がいる。

冷徹で情がないとか、気が利かないとか、常識がないといったものだ。

ある意味では正しいと言える。きっとそれらを習得する時間を惜しんでまで勉学に励んだのだろう。

ただし、賢い人間はそうではない。賢さとは、勉強ができるだけではない。

本校は賢い人間を作る場である。受験にも必要な「忍耐」「向上心」「探求心」の他、

受験に必要のない「礼儀」「就労観」「道徳心」も育てていく。

 

政治の話題になれば、時事問題の基本的な構図は話す。

こんな職業に就くにはどうすればいいか、などの話も行う。

受験においてそれは無駄な時間に見えるかもしれない。だが、無駄な知識こそ重要なのだ。

勉強だけできる人間は求めていない。

部活に燃えて結構! 塾も部活も頑張るからこそ、『努力家』と称されるのだ。

貧しければ塾に行け!

私は、貧しい家庭で育った。ただ、幸運なことに私は幼い頃から勉強が好きだった。
私は不良の道に進むことなくここまで来ることができたが、多くの場合はそうではない。
だからこそ、私は貧しい人ほど勉強をして逆転して欲しいと思っている。

日本は学歴社会である。学歴が高いほうが有利な世の中になっている。
貧しい家庭に生まれても、勉強を一生懸命やれば金持ちになるチャンスが掴める。
頑張ろうという気持ちさえあれば、富裕層になれるのだ。

ただし、中途半端大学では何の意味もない。トップレベルのみ価値がある。
きちんと説明しようとすれば長くなるが、基本的には小中学生のうちに勉強ができるようになればいい。

年間30万程度の教育費を払えば、将来の年収が200~300万上がるとすれば安い買い物だろう。

これが高校になって塾に行くと年間100万ほどかかる。もっとかかるところもザラだ。

 

進学校に行かないにしてもある程度の「勉強する力」がないと、その世界での上に立つこともできない。

どうせ工業高校に行くから、どうせ受かるから勉強なんてどうでもいい、と思うのは間違いだ。

学力の基礎がないと昇格することも難しい。

もちろん、頑張る気もない人はどうでもいい。

ただ、気持ちはあるのに恵まれた環境にない人を私は応援したい。

どこに行くかではなく、何のために行くか

私は以前、公立の学校教師として働いていた。その中で、多くの子供たちの進路に関わってきた。
自分が何になりたいか、何をしたいかを明確に持っている人はごく少数で、

ほとんどは「よくわからない」と言う。

やりたいことも興味のあることも特にない。だから、とりあえず上を目指そうとする。

勉強ができないとやれないことはたくさんがあるが、

勉強をすることによってできなくなることはほとんどない。

それがほとんどの大人の解答であり、一見正しいように聞こえる。

だが、ちょっと待ってほしい。

夢もなく、ただ頑張り続けることができるのだろうか。

頑張っているうちに自然と夢が見つかるのだろうか。

実際は、問題の先送りに過ぎない。

結局やりたいことを見つけられずに、頑張ることを止めてしまった高校生・大学生は山ほどいる。

本校では将来の話をする。夢の見つけ方を教える。

その結果、大学に行く必要がないのであれば、高校を卒業後に就職したほうがいいかもしれない。

大学を卒業するにはお金と時間がかかる。

それに見合った価値がないのなら、何となくで大学に行くのは無駄だ。

なぜ、その学校に行きたいのか。それをハッキリさせることは将来を考える上で重要なことである。

塾に行くより本を読め!

現代の若者はとにかく本を読まない。だから言葉を知らない。何が正しい言葉なのかわからない。

言葉は辞書でひいて学ぶものではない。テストのために覚えるものでもない。

模倣からしか言葉を学ぶことはできない。

一番良いのは正しい言葉を普段から使うことだ。

そのためには正しい言葉を知らなくてはならないし、間違いを正す人も必要である。

だがそれは現実的に難しい。

「本を読めば賢くなる」これは古くから言われている。誰もが一度は聞いたことがあるはずだ。

確かにただ読むだけで誰もが賢くなるわけではないが、

本を読んでいない子の賢くない原因の大半はそれである。

読書を全くしない人間で賢い人間なんて、ジョギングをしたことがないスポーツ選手並みにいない。

今は読んでなくとも、人生のどこかでかなりの読書量があったはずだ。

 

読書が賢さに繋がる理由を以下に述べる。

第一に、文章を読んだ経験が少ないと語彙に乏しくなる。様々な種類の本を読むことが重要だ。

第二に、文字を読むのに慣れていないと読むこと自体が苦痛になる。読み飛ばし、読み間違いも頻発する。

第三に、本を通して普段考えない世界への想像力が膨らみ、様々な知識を得ることができる。

第四に、数十分間静かに1つのことに集中するという機会を日常的に持てる環境が必要である。

国語に限らず、数学、理科、社会は日本語で書かれている。

書いていることの意味が正しくわからなくては、何も解けるはずがない。

逆に言えば、書いていることの意味を正しく理解できれば、中学の範囲で難しいものなど数えるほどだ。

更に、英語は学年が上がると(特に高校生になると)国語力がないと解けないものが増える。

 

極端に言えば、学校の勉強よりも読書が必要な子もいる。

そういう子は読書をしろといっても、忙しいだの何だのとお茶を濁すが、

では、いつ忙しくなくなるのだろうか。

もちろん人によるのだが、多くの人は何よりも読書を優先すべきだ。

​そしてそれは今、すべきだ。

偏差値が50以下の人は読書量が足りていないせいでできない可能性が高い。

塾なんかに行くぐらいなら毎日1~2時間の読書をしてほしい。

内申のために部活をするな、生徒会に入るな

公立入試は中学校の成績(内申点)が重視されている。

その点数次第では入試本番で満点を取ったとしても合格できない大事なものだ。

その内申点が書かれた「内申書」というものには学校生活をどのように送ってきたかを書く欄がある。

そのため、「部活に入っていなかったら内申に響く」とか「生徒会に入っていたら有利」という

真しやかなウソが蔓延っている。

正確に言えば、勉強を重視しない、部活ばっかりやるような高校であれば、

部活に入っているかどうかはそれなりに影響するだろうが、

部活をしたいわけじゃないのに、進学のためだけに部活に参加するのは

はっきり言ってナンセンスだ。その部活の時間勉強したほうがよっぽど合格率が上がる。

 

そもそも部活しているかどうか、生徒会に入っていたかどうかをひとりずつチェックして、

どのように合否を測るというのか。まず労力がかかりすぎる。

合格ラインギリギリで同じ点数が複数名いたとき、

部活やその他を加味して考えることはないわけではない。

ただ、部活して合格ギリギリの子は、部活しなければ余裕で合格する。

それほどまでに今の部活は時間を圧迫している。(地域差はあるだろうが)

 

部活がしたくてする、生徒会に入りたいから入る。

だったら別に問題ない。本人が好きで大変な目に遭うだけだ。

目的が内申であれば、それは全く意味をなさない。

​点数稼ぎのために部活をするなんて邪な考えは良くない。

 

世界はもっと広い

塾に対して悪い印象をもつ人の多くは、自分の幼少期の塾の先生のイメージが相当悪いからだ。

点数至上主義で、点が取れないと怒鳴り散らされる。

正直、そういう人もいる。そうじゃない人もいる。

学校の先生もそうだ。良い人も悪い人もいる。親だってそう。誰だってそう。

しかし、イメージというのは怖いもので大人でも思い込んでしまったら払拭しにくい。

まずイメージの訂正の機会がなかなか与えられない。

うちに来られる保護者の方からも

「最近の塾ってこうなんですねー。」と良く言われる。

それも違う。この塾は、平均的な塾ではないので、ここが「最近の塾」だと思ってはいけない。

子供たちは尚更。今まで出会ってきた人の数が少ないので、

大人たちはこういうものだと思い込むことが多い。

大人の言うことは正しいに決まっていると思っているなら、それは違う。

大人の言うことは嘘ばっかりだと思っているなら、それも違う。

一括りにしてはいけない。あなたが思っているより世界は広い。

正しいことも言うし、正しくないことも言う。

だから、先生の言うこともすべてを信じ切ってはいけない。

だから私は、自分の言うことに対して「信じろ」とか「言う通りにしろ」とは言わない。

習い事はほどほどに

塾に来られる方はほとんどが別の習い事をしている。

時間もお金も余裕があるなら、まぁそれはそれでいいのかもしれないが、

基本的には『何もしない時間』というのは凄く良い時間だ。

現代ではそれの時間をテレビやゲームに充ててしまうので問題ではあるが、

空白の時間が与えられたときこそ、人はいろいろ考える。

まず、何をしよう。外に遊びに行こうか、家で遊ぼうか。
外で遊ぶならまずは友達を誘おう。人数次第でやることが変わるぞ。
家で遊ぶには何をしよう。本でも読もうか、絵でも書こうか。


暇だからとじっとしている人は少数で、普通は何かをしようとする。
ゲームやテレビに慣れている人間はそういう道具がないと何もできない。
それと同様に、暇な時間がない人間は急に暇になったときに何をすればいいのかわからなくなる。
暇な時間は意外と頭を使う。そして、その時々に相応しい時間の使い方ができる。
休みたいときは休むし、体を使いたいならそうする。
いろんなことを行うと成長効率は良い。

同じことを繰り返す習い事は表面的な能力が上がるため一見良さそうだが、
本質的な能力も上がっているかというと何とも言えない。

結局、大人が面倒を見てられないから習い事をさせて時間を埋めるという側面がある。

そのような時間とお金の使い方は勿体ない。

塾は当たり前のことをする場所

塾に来ると学校では習わない魔法のような解き方を教えてくれて、

すぐに成績が伸びると勘違いする人は生徒にも保護者にも少なくない。

確かに中学受験においては、学校で習わないことをたくさん学ぶかもしれない。

しかし、基本的には「すべきことをきちんとさせる」それだけだ。

もし本当に魔法のような解き方があるなら、とっくに教科書に載っているはずだ。

そうじゃないのであれば、何か良くない解き方なのだろう。

塾とは、何が悪いのかを診断し、その対処を考える場所と捉えて貰ってもよい。

「才能」は確かに存在する

ハッキリ言ってしまうが、誰でも努力すれば東大に受かるわけじゃない。

誰でも努力次第でプロ野球選手や、プロミュージシャンやプロ漫画家になれるわけじゃない。

努力と運と才能が必要だ。​

それでも努力をしないと生まれ持っていた能力を伸ばすことができない。

そして、努力次第ではある程度のレベルまでは大体行く。

例えば生まれ持った力が10とか8とか3とか人それぞれ力は違う。

正しく努力すれば90%の人はそれが70~80くらいまで能力を伸ばせる。

で、多くの場合はそこで止まってしまうのだが、一部の才能のある人間は

更に努力することで100くらいまで能力を伸ばせる。

才能なんてない、努力でどうにかなる、は嘘だ。

しかし、努力でどうにかなる、だけならある意味正しいと思う。

それでもスポーツや芸術の世界では100以上の能力を持った人でないと戦えない世界だ。

才能がないのに目指すにはリスクが大きい世界である。

だから目指すなという話ではなく、そこに目を瞑って進んでも夢は夢のままである。​

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